アグネスタキオンとトレーナーのバレンタイン二冠戦線

Report『担当トレーナーとの季節性コミュニケーションの有用性』

「トレーナー君、ちょっといいかい?」

年始の忙しさのことを俗に「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」などと言うが、二月に異次元の逃亡と言っても過言ではないレベルで大逃げを決め込まれているある日、担当ウマ娘であるアグネスタキオンがトレーナー室を訪れてきた。ちなみにこの「ちょっといいかい」は「お茶を淹れてくれ」か「実験の被験者になってくれ」のどちらかであることがほとんどだが、見たところ実験器具やレコーダーの類いは持っていない。おそらく前者だろう。

ちょうど一休みしようと思ったところだから大丈夫、と応えて席を立つと、肩や背中周りからミシミシと面妖な音がトレーナー室に鳴り響いた。その音を聞いて彼女が厭そうな顔をする。

「君、随分根を詰めすぎるきらいがあるが、もう少し君自身を大事にしたまえよ」

本当に自分自身を大事にするようなトレーナーは、担当になるためにタキオンの薬を飲んだりはしないし、そう思うウマ娘はトレーナーに自作の薬を飲ませないと思う……と言う本心は隠しつつ、いつしかポットとティーカップ、茶葉、そしてタキオン用の角砂糖が保管されるようになったトレーナー室の一角へ向かう。

「ああそうだ。今日はウバを淹れておくれよ、トレーナー君」

はて。彼女のためにトレーナー室に何種類か茶葉を用意しているが、彼女が常飲するものとは違う茶葉のご指名が入った。淹れ慣れていないウバの蒸らし時間は何分だったか包装をこねくり回して探していると、さらに驚くべき言葉がかけられた。

「急がなくても構わない。落ち着いて淹れたまえ」

……怪しい。非常に怪しい。約束もしていない手作り弁当を「はーやーくー」と強請る彼女が、自分のペースを何よりも重んじるタキオンが、記者の取材すら時間の無駄と切って捨てるあのアグネスタキオンが、こんな聞き分けのいいことを言うだろうか!?

まさか何かしらの実験かと思い彼女の実験スケジュールを思い返すも、特に思い当たる節は無い。ただ、迂闊にもタキオンの実験を忘れていた場合は本試よりも(身体的に)厳しい追試が行われるので安心とは言えないのが悩ましいところではあるが。

もしくは別の可能性も考えられる。例えば体調不良だ。彼女の体調が悪いために味の好みが普段とやや異なり、だだっ子になる元気もない。

うん、実にありそうな話だ。時折頭痛に苦しむ彼女だが、それ以外の体調不良を訴えることは多くない。なんなら、風邪程度なら自作の薬で解決(しようと)するくらいだ。副作用で体が発光したり変色したりするが。その彼女がこんなに様子がおかしいのなら、きっとよっぽどの事だろう。

そう結論を出したのは、慣れない茶葉に苦心しながらも淹れ終わった紅茶をティーカップに注ぐ段になってだった。しかし、体調が悪いかと真正面から聞いても正直に答えてくれるとは思えない。どうしたものだろう。

そんな事を考えながら、まさに心ここにあらずといった具合でカップをテーブルに置いていたのが良くなかったのだろうか。

カップを置いたその先に、彼女がいないのである。

マズい、非常にマズい。いくら最近は落ち着いてきたとはいえ、彼女が放校寸前まで行った問題児であり、学内各所において危険人物認定されていることには変わりない。速やかに確保してトレーナー室なり研究室なりに収容しない限り、一般の生徒の保護という教職員の命題に対する凄まじいリスクになるのは、彼女が発生させた数々のインシデントや損壊せしめた学園設備を見れば明らかだ。

しかし相手は「超光速のプリンセス」の異名を冠するウマ娘。担当トレーナーといえども、捕らえるのは到底無理な話だ。難しいとかそういうレベルではない。無理だ。しかし、こういった状況でも手を貸してくれるであろう人物がいないわけではない。とは言っても、たづなさんぐらいしか頼れそうな伝手を思いつかないのだが。

そう思って内線をかけようと携帯を手にとって、たづなさんからのメールがあることに気がついた。しかも教職員全体宛て。厭な予感がして文面を確認すると、理事長がURA本部に行かなくてはならない緊急の用事があるらしく、午後は理事長もたづなさんも在校していないとのことだった。

……ちなみにURA本部による理事長呼び出しは今年度に入ってから既に三回発生している。しかもその呼び出し元はいずれもURAの経理部とのこと。理事長の「ポケットマネー」の額が凄まじいことは学園教職員ならば誰もが知るところであった。聞くところによれば、ここまではとあるURA幹部職員が全面的ではないものの肩を持ってくれていたともっぱらの噂だった。が、やはり巨額すぎて庇いきれなかったのか。その投資ッ!は、わずか四度の決裁で問題になったとみて間違いないだろう。

閑話休題。頼みの綱だったたづなさんに至っては学内にすらいない。かくなる上はもう自力で行方を探し確保しなければならないと思い、慌ててトレーナー室から出て研究室へ向かう。幸いにして、タキオンが「やらかす」ときの黒煙、怒号、袋を頭から被せられて運ばれる人間といった兆候はまだ無い。特に一番最後など、担当ウマ娘のやらかしで同僚に菓子折りを持って謝りに行くという稀有な経験ができたせいで忘れようにも忘れられない。モルモットになるのは私だけでいい。

そんなことを考えながら研究室に急いでいると、聞き覚えのある高笑いが聞こえた。タキオンだった。

「『忘れ物をしたから研究室に取りに戻る』と言ったのに、わざわざ迎えに来てくれるとは殊勝な心がけじゃないか」

見れば、確かに何やら箱を持っている。しかし、忘れ物をした……? そんなことを聞いた覚えは……

「トレーナー君。やっぱり君、ここのところ根を詰めすぎているだろう」

確かに、彼女がシニア級で走るようになってから、根を詰めていないといえば嘘になる。しかし、彼女が自分の足で走ることを決め、それが叶うのならば、なんだってする。彼女を、アグネスタキオンをスカウトした日に、3本の薬を飲み干した日にそう決めたのだ。

「いくらなんでもお茶を淹れる短時間で気もそぞろになるなど、この数年に渡って私の実験に付き合ってきた君らしくない」

そう言って彼女はトレーナー室の方へと歩みを進める。

「月桂杯のときといい、君は時折、私をスカウトした時のようにタガが外れる」

「私だって夏合宿の時の記者のような手合とまでいかなくても、学園中で奇人扱いされているのは知っているが、君だって私の担当になって以来、相当な評価になっているぞ」

……私の今後のトレーナー人生や、学園内での人事評価的に少し不安になることを担当ウマ娘から聞かされてしまった。とはいえタキオンの薬を飲んでまで担当になるトレーナーは私以外いなかったということを考えれば、やむを得ない気もしないではないが。

「君のその随分狂った瞳の色をしているところはたまらなく気に入っているが、自分自身を簡単に投げ捨てるところはあまりいただけないと思っているのだよ、トレーナー君」

彼女がトレーナー室の扉を開ける。

「そうそう、ニシノフラワー君に聞いたところでは、今日はハッピー甘味物の日だねぇ」

彼女は先程の箱を私に差し出す。

「シニア級の勝利はあくまで行きがけの駄賃に過ぎない。私は可能性の果てを見るために走るし、私は君に見せてやると約束した」

「私が唯一抜きん出たとしても、君だけには並んでいてもらわねばならないからね」

そう言ってのける彼女の笑顔からは、かつての今にも砕けそうな、まるで硝子のような脆さを感じることは無かった。

なお、味については確かに茶色い食べ物のそれであったが、甘味かどうかについては審議せざるを得ないものだった。

なんなら、その後私がクッキーを焼く羽目になった。

要検証『適切な返礼品と味覚嗜好』

「……という訳で、ニシノフラワー君にお礼のお菓子を渡そうと思ったのだが、カフェに止められてしまってね」

マンハッタンカフェは、タキオンが空き教室を彼女の研究室にするにあたり、生徒会から指定された保護者というか目付け役というか、そういった立ち位置の生徒だ。無論、そういった立ち位置に据えられるだけあって、比較的常識的な部類に入る生徒だ。

……彼女の回りで起きる現象はあまり常識的ではないが、彼女自身は比較的常識的だ。少なくとも私の担当ウマ娘よりは。

して、その彼女が止めたお礼のお菓子とはどんな物なのだろうか。

「これを渡すつもりだったのだが」

タキオンが取り出した包みを見た刹那、私の中の採決委員が出走取消を主張した。

そこにあったのはタキオンが海外から定期的に個人輸入しているお菓子。だがその存在感と甘さは伊達ではない。キャラメルクリームを包んだチョコクリームをビスケットで挟み、さらにチョコレートでコーティングしたお菓子は、ここのところ生徒の間で流行っているはちみーの固め濃いめダブルマシマシに勝るレベルだ。

とりあえず、タキオンには返礼品はお菓子にすべきこと、そして今手に持っているのは糖分補給用の行動食であって、断じてお菓子ではないことを説いた。

「それならばトレーナー君。君はニシノフラワー君にお返しとして何を送ればいいのか、何か案があるのだね?」

そう言われてしまうと困る。かたや今をときめくトレセン学園の女学生。かたや日々の仕事が生活にもかかってくるトレーナー。かたやイマドキの子。かたや元・イマドキの子。

「ふぅン、トレーナー君。君は代案もなく私の返礼品案を却下した、と?」

私は苦し紛れで、同僚に一つ借りを作る覚悟を決めた。


「今日はお招きいただきありがとうございます、タキオンさん、トレーナーさん」

私の苦し紛れの方策。それは後輩の担当ウマ娘であるダイワスカーレット君に教えを請うことだった。無論、忙しいトレーニングの合間を縫って来てくれたダイワスカーレット君と、諸々の調整をしてくれた後輩には感謝の念しかない。ただし後輩が随分とふっかけてきた件については後日俸給の違いをきっちりとわからせることにする。

「それで、相談したいことがあると伺っていたのですが……」

さすが優等生。話が早い。とりあえずお菓子を食べながら、リラックスして話を聞いてもらおう。という訳で、お皿の上にはタキオン御用達「例のお菓子」が載せてある。一口サイズのさらに半分にカットして黒文字まで用意してあるから、食べすぎることはないだろう。

「っ!?」

ダイワスカーレット君が目を見開き、どう反応したものか困惑している。うん、やっぱりそういった反応になることは薄々分かっていたとはいえ、こういった騙し討ちのようなことは気が引ける。少し暖かくなってきたという名目でアイスティーを用意したのも正解だった。甘くないことを明言してアイスティーを勧めると、彼女はごくごくと飲み干していく。アイスティーを用意したピッチャーを慌てて冷蔵庫に取りに行くと、後ろでタキオンがボソリと呟いた。

「……トレーナー君、やはり外部からの視点というのは大切だな。まさかここまでとは」

ダイワスカーレット君が落ち着いたところで、今回の本題についてタキオンが切り出す。

「……という訳で、お菓子を貰ったのがイベント当日でね。私が預かり知らないことだったとはいえ、イベントはイベントだ。お礼としてそのお菓子を渡そうと思ったのだが、カフェやモルモット君に反対されてしまってねぇ」

わざわざ私のことをモルモット呼びするときは不機嫌なときかやたら独占力の強いタイミングのことが多いのだが、ダイワスカーレット君を文字通りモルモットにしたこの状態でその呼び方をされるのは、なんとも言えない後ろめたさがある。

「ええっと、タキオンさん基準なら常食するお菓子かもしれないんですけれど、ちょっと他の子には甘すぎるかなって思いました。ニシノフラワーさんがそうかは分かりませんが、糖質を制限している子もいますし、確かに別のお菓子のほうがいいかもしれません」

「とは言ってもねぇ。私が普段食べる市販のお菓子は概ねこのくらいは甘いものがほとんどだ。正直、他の生徒の好む甘味に関しては皆目見当がつかない。そこでスカーレット君にアドバイスを貰いたくてね」

このレベルの甘さの製品が他にもあるという恐ろしい事実、そしてそれをタキオンが常食しているという更に恐ろしい事実が明らかにされてしまった。食事の制限は確かにしていなかったが、普段どれだけの炭水化物を摂取しているのか知りたくもない。いや、担当トレーナーだから嫌でも知るべきなのだが。

「ニシノフラワーさんがタキオンさんに作ってくださったのって紅茶のケーキなんですよね」

「あぁ。調理工程はちゃんと見ていないから流石に茶葉の銘柄までは分からないが、紅茶のケーキだったよ」

話が進み始めれば、あとはダイワスカーレット君に任せればなんとかなるだろう。私はダイワスカーレット君の前から例のお菓子を下げ、個人的なおやつとして持ち込んでいた塩味のするクッキーを改めてお茶菓子として出した。

ホワイトデー当日。タキオンは無事にニシノフラワー君にお礼のお菓子を渡してきたらしい。そして、そのおすそ分けは私のもとにもやってきた。

「検討の過程で試作しすぎてしまった分だ。味見も相当したから、私は甘味ではなくこのお菓子の味に食傷気味だよ。責任を持ってトレーナーくんが食べてくれ」

箱の中を見れば、タキオンの瞳のような綺麗な茶色のマカロンが並んでいる。というか、マカロンってこんな風に自作できるものだとは知らなかった。

「それに、この間トレーナー君が焼いてくれたクッキーは実に美味しかった。叶うなら、来年も君の焼いたクッキーが食べたいねぇ」

口に運んだマカロンからは、タキオンが最も気に入っている紅茶の香りがした。

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